失敗は学びのエンジンという話

今日書きたいことは、
・素人はコツをつかんで上達するには、まず失敗してみること
・失敗したうえで、その道を究めた人からのアドバイスや、 失敗した時の詳しいデータをもとに原因を探ってみることで、 学びの効果がもっと大きくなる
・失敗する余裕がなくなると、 その学びのエンジンが失われてヤバいかも

くらいです。


先日、ラジオに俳句の夏井いつき先生が出ていた。

アナウンサー「俳句を上手く作るコツって何ですか?」
夏井先生「安易にコツを聞くな!」

そりゃあそんなん聞いたらおこられるだろうよ。

プロの、その仕事をするためのコツのようなものは、 その人が長年積み重ねてきたものであって、 素人にわかる言葉で説明しようとしたら本1冊では効かないくらい に膨大になるだろう。
あるいは、それを一言に凝縮することもできるのかもしれないが、 そうして凝縮された一言を素人が理解できるはずがない。

では素人がコツをつかんでいくにはどうしたらいいか。

それは失敗してみることだと思う。
自分なりに考えを重ねて、やってみて、 それでもうまくいかなかった時に初めて学びが得られる。
そのようなときに運よく、 その道を究めた人のアドバイスがもらえるなら、 きっとその効果は何倍にもなるだろう。
夏井先生の出ている「プレバト!」は、 芸能人が考えてきた俳句を先生がバッサリ添削して悶絶するの が楽しい番組だが、それでめきめき上達する人がいるのも事実だ。


仕事で付き合いのある組織の所長さんは、 その分野ではおそらく県内一の技術を持った人だが、その人は、

「俺も数多く失敗した。失敗してみないと、 大事な判断ができるような経験は身につかない。」
「ただ、漫然と「失敗した」ではダメ。原因は必ずある。 きちんと考えたうえでの失敗でなければいけない。」
「何が原因で失敗したかを知るには、 現場の状態を常に把握しておくことが必要。」

と言っていた。まさにその通りだと思う。
失敗したときに、 その時のデータが残っていれば、 それをよく見ることで失敗の原因を探り、次につなげられる。
きちんとデータを取っていないと、 何が原因かわからないので同じ失敗を繰り返す「漫然とした失敗」 になる、というのだ。

このやり方は、 その道を究めた人からのアドバイスよりは効果は高くないかもしれ ない。
でも、自分の経験として実感を伴った深い理解ができる、 という点では、こちらも貴重なものになると思う。


一方で、その所長さんはボソッと、

「今は失敗する余裕もないけどな。」

とも言っていた。

失敗できる余裕がなくなるのは、学びのエンジンを失うことだ。
未来に向けての大きな損失なのかもしれない。

自分の意見で生きていきたい

ちきりんさんの「自分の意見で生きていこう」を読んだ。目から鱗だった。
これまで自分が出してきたつもりだった意見は、かなり の部分がポジションを明らかにしていない=反応だったことがわかった。


2年ほど前に、仕事で付き合いのある組織のトップの人と話をする機会があった。

「自分の意見は大事にしなければいけない。自分の意見というもの は自分の財産だと思っている。」

「自分の意見、ですか。」

「そう。うちの組織には俺以外自分の意見を言う者がいない。〇〇 課長(普段私が付き合いのある現場担当者)にも、自分の意見をも て、と再三言っているのだが。。。」

当時は、言っていることが腑に落ちた感じではなかったのだけれど、なんとなく真理的なものを含んでいるような気がして心に残っていた。

その後、その人は組織を去り、別の人がその組織のトップになったのだけれど、その人も意見を持たない人だった。
その組織の経営は(環境変化の影響も大きいのだが)立ち行かなくなり、最近の理事会でも組織の行方を左右する議題が出されたものの、誰も意見を言わなかったと聞いた。


先日、仕事で新たな仕組みをつくるので、その素案に対して意見をもらいたい、という依頼があった。
これまでも似たような依頼はよくあったのだけれど、ポジションを明らかにしない質問ばかりを出してしまっていた。

「ヨシ」と思い、小一時間ほど考えて、その素案に対してポジションをとった意見を出してみた。

意見を書いてみての感想だが、ポジションを明らかにした意見は( 特に反対意見は)ちょっとキツい感じがするのだ。
だから、これまでは「この意見は間違っているかもしれないのに、 キツい感じのことを書くのもな。。。」と、ポジションを明らかに しない質問ばかりをしてきた。

ちきりんさんは、意見には正しいも間違っているもない、という。
意見を書いた結果、たとえちょっとくらい誤解されたとしても、間違った意見なんてないんだ、と思うことでとても勇気づけられた。

何より、自分の意見を書いてみて気持ち良かった。早く他の人にも 見せたい、とも思った。


これからは自分の意見で生きていきたい。

「数字」などを実感を伴って理解するには得意なことに絡めるとよいのかも

今日書きたいのは、

・小さいころに、「数字」のようなその後も多用するツールについての実感を伴った深い理解をすることが大事。

・そのためには子どもの得意な分野に絡める形できっかけづくりをするのが良いかも。

というあたりです。

 

 

 

私が小学校低学年のころ、宿題が「課題」と「自由学習」のセットみたいな形で出されていました。

 

「課題」は漢字の書き取りだったり、計算問題だったり、先生がその日やるお題を決めてやる宿題です。

「自由学習」は、日記でも何でもいいからとにかくノートの見開き2ページになにか書いてくればOKみたいな宿題だったと記憶しています。

 

ある日「課題」で1から100までの数字を書いてくるように、という宿題が出されました。10分くらいで書き終えたと思うのですが、100という大きな数字を全部書き終えたという満足感がありました。

もっと続きを書きたい、そう思ったので、次の日から「自由学習」でその続きを書き始めました。

もともとほかの人から見たらよくわからないようなことに集中力を発揮するようなタイプだったので、その続きは1000を超え、5000を超えて、ノートが2冊目、3冊目になっても書き続け、数か月で13000くらいまで書いたところで飽きてやめた、と記憶しています。

 

このことで、5000や10000という数字がどのような大きさのものであるか、ということが実感を伴って深く理解できた、と思います。

この「実感を伴って理解する」ということがとても大事で、名著「シン・ニホン」にも、

本当の意味で肉化された知識、知恵がなければその人なりの価値の創出が難しい時代に突入することを考えれば、肌感覚で価値を理解でき、操作できる領域を増やすこと、それを表現する力が極めて大切になることは自明だ。(中略)対象とのぶつかり合いを通じて、自分なりに肉化する力や気づく力が遥かに大切になる。

 

とあります。(「シン・ニホン」については別途また感想や考えたことなどを書きたいと思います。)

 

この数字の大きさというものを実感を伴って理解できたことが原因がどうかはわかりませんが、その後は数字を面白いと思うことが増え、小学校で好きな科目を聞かれれば「算数」と答えていたし、高校では理系を選択して大学でも理系学部に行き、今でも「この数字とこの数字を使って分かりやすい資料を作る」みたいな仕事は楽しくやっています。

 

 

 

話は変わりますが、5歳になる上の子は、「ルールを理解する」とか「言葉の意味を理解する」というようなことはスムーズにできるのですが、数字が苦手なようでして、数字の大きい小さいを知りたい、例えば6と8とどっちが大きいかを知りたい、というときには、壁にかけてあるカレンダーや時計を見て数字の大きい小さいを確認してから話しはじめる、という感じでした。

かといって、かつて私がやったようにとにかく数字を書きまくる、みたいなやり方を本人の希望なしにやったとしても、ただの苦行にしかならないので、そこは何かのきっかけを待っていたところです。

 

先日子どもの希望で、サンリオのトランプを買いました。はじめはババ抜きや七並べをやっていたのですが、大貧民(地域によっては「大富豪」ですかね)のルールを教えてみました。

5歳にはちょっと難しいかな、とも思ったのですが「ルールを理解する」のは苦労せずやるタイプなので、わりとすんなり理解し、今では負けると床をたたいて悔しがり、勝つと飛び上がって喜ぶなど、ドハマりしているようです。寝る時間になっても「まだやる!」と言い張るのはさすがにやめてほしいですが。。。

 

そうやって大貧民にドはまりしているうちに、いつの間にか時計やカレンダーを見なくても小さな数字であれば大小がすんなり出てくるようになったようです。

これが「実感を伴って理解している」ことなのかどうかはわかりませんが、少なくとも数字に親しむきっかけになったようです。

 

 

私の場合は、ほかの人からみたらよくわからないようなことに集中力を発揮するタイプだったのが幸いして、数字に対する実感を伴った理解につながりましたが、上の子の場合、「ルールを理解する」ということは割と得意であり、得意なことを利用してゲームにハマることが数字に親しむきっかけになったので、これからも得意な分野と絡めてきっかけとなるようなことを提供していければいいな~と思った次第です。

子どもに「大枠から説明するやり方」をいずれ学んでほしいと思った話

今日書きたいことは、

 

・子どもには大枠から説明して聞き手の理解をスムーズにするやり方をいずれ学んでほしいけど、今は聞き手が大枠から聞いてあげることで、スムーズなコミュニケーションを図りたい。

Google先生やっぱりすごい。

 

というあたりです。



先日の長女(5歳)との会話です。



「きょうね~、ようちえんでね~、〇〇くんとらきゅうやっているときね~」

 

「ちょっとまって、『らっきゅう』って何」

 

「らっきゅうじゃないよ、らきゅうだよ~。らきゅうはね、こういうやつを(手で形を作っている)、こうやる(手で何か動かしている)ものだよ~」

 

「全然わかんない」

 

「だ~か~ら~、こういうやつを~(同じ説明を大きな声でもう一度)」



仕事などでも、わかりにくいことを説明する際には、大枠から説明することで聞き手の理解をスムーズにする、というやり方があります。できていない人も結構いると思います。

 

こちらの記事にもそんなことが書かれていました。

「話のわかりやすい人」と「わかりにくい人」のちがい | Books&Apps (tinect.jp)

5.「全体から入る」か、「詳細から入る」か

例 「将棋」を知らない人に将棋のやり方を伝えるとき

 

話のわかりやすい人はまず「2人でやるゲーム」「コマを動かして、相手の王様を取れば勝ち」という最も大きなルールを相手に伝えます。次いで、「駒の種類」「最初の駒の並べ方」「駒の動かし方」「駒のとり方」「取った駒の使い方」といった具合に、全体から詳細へと順番に説明を行います。

 

話のわかりにくい人は、いきなり「駒の動かし方」や「成(なり)のルール」から説明したり、あるいは「反則」についての説明を入れてしまったりと、詳細から、構造を意識しないで話します。 理解に役立つイメージの共有は、やはり全体像から説明されることで可能になります。話は全体から入るようにしましょう。

 

子どもにもいずれはそういう説明の仕方を学んでほしいと思いますが、大人でもできない人がいるのに5歳にやってもらうのはハードルが高いかな~と思いまして、聞き手が大枠から聞いていくことにしました。

 

「それは遊ぶものなの?」

 

「そうだよ」

 

「(きゅう=球技かも)お外とかでボールを使って遊ぶもの? それとも部屋の中で遊ぶもの?」

 

「へやのなかでやるんだよ。ボールはつかわない。こういうやつを(手で形を作っている)、ぴちっとやっていろんなかたちをつくるんだよ」

 

「パズルとかブロックみたいなもの?」

 

「そう! じでかくとこうだよ」

 

らQ

 

(まさかのQ!)

 

ここでGoogleの力を借りました。

LaQという、ピースを組み合わせていろいろな動物や乗り物などをつくるブロックのようなものでした。

 

ちなみに、Google先生は「らっきゅう」でも「らきゅう」でも「らQ」でも同じ正解にたどり着きました。

きっと子どもたちの「らっきゅうがほしい」という謎リクエストに困った親たちがGoogle先生に頼った結果、Google先生の中の人が最適化していった結果かとは思うのですが、やっぱりすごいと思いました。

説明が刺さる気持ちよさを比較的頻繁に体験できるのが子育ての魅力の一つかもしれない

先日、長女(5歳)が「湯たんぽ」を知らない、というので説明したときのことです。

 

「湯たんぽって何?」

 

「湯たんぽ知らないのか~」(確かに家にはないもんな~。こんな説明ではどうかな)

「湯たんぽはね、これくらいの大きさで、上にネジネジのふたがついてて、中にお湯を入れて、それをお布団に入れるとお布団があったかくなって気持ちいい、というやつだよ。」

 

「わかんない。」

 

「わかんないか~。」(ムム、ではこんな説明ではどうか)

「ペットボトルってあるじゃない?あれにお湯を入れてふたを閉めたら、ペットボトル全体があったかくなるでしょ?それをお布団に入れるとお布団があったかくなるわけ。」

 

「うん」

 

「でもペットボトルだとすぐ冷めちゃってあったかくなくなるから、もっと大きい入れ物にお湯を入れて、朝まであったかいのが湯たんぽだよ。」

 

「わかんないけど、どういう物かはわかった。」

 

(おっ、刺さったかな)

 

そのあと妻に「湯たんぽってね~こういう物なんだよ~」と説明する声が聞こえたので、多分、

・フタのついた容器であること

・中にお湯を入れること

・布団の中に入れて暖めるもの

 

であることはわかってもらえたようです。

 

説明が刺さる、というのは気持ちが良いものです。

ですが、大人に対して説明する時に「説明が刺さって気持ちいい」ということは、説明がむちゃくちゃうまい人以外はそんなに頻繁にあるわけではないと思います。

説明する中身も複雑なことが多く、たとえ説明が刺さっていても、それをリアクションしてくれないこともあります。

 

子どもに説明する場合、簡単な中身のものも多く、表情豊かでリアクションが分かりやすいので、「説明が刺さって気持ちいい」ということが大人に比べて多いな~と感じます。

定期的に書くにはネタの発見力と自分に合った書くスタイルが必要

またしばらく更新できなかった。

今度は前の様に若干ウツになったわけではない。

どうして更新できないかを考えてみた。

 

①ネタがない

 

書くようなことがあるときは考えのきっかけとなるような元ネタがある。

例えば、こちらの記事は歩ているときに目に留まった看板に違和感を持ったのがきっかけになった。

どうでもいいような元ネタでも考えを展開していくことはできるけど、きっかけとなる元ネタがないとそこから考えを展開していくことはできない。

 

また、朝歩いているときに考えていることは今日の仕事のことだったりする。

仕事のことは個人のブログには書きにくい。(だいぶ脚色すれば別だけど。。。)

 

かといって、無理に元ネタを作ることはどうかと思う。

このブログは自分で考えたことをメモ的に残すことを目的に始めた。

それを読んだ誰かの何かになったらいいな、くらいの気持ちで公開している。

なので、ネタがないからと言って、誰でも書けるようなネタとか、誰かがすでに書いているようなものの真似のような文章を書くことに意味はない。

 

眞子さまの結婚問題や自民党総裁選について書くことはできるかもしれない。

でも、すでに他の人が書いた多くの情報に触れてしまっているので、何か書いたとしてもどっかで見たことあるような文章になるだろう。

 

歩いているときに目にした看板でも記事になるくらいだから、ちょっとしたことでいいんだけどな~。

 

 

②書くスタイルの問題

 

書くスタイルにも問題があるかもしれない。

 

今の書くスタイルは、

①朝通勤時間に歩きながら考えたことを、始業時間前にPCに打ち込む

②昼休みなどにそれを推敲をして、メール送信する

③寝る前に自宅のPCを立ち上げ、それを公開する

というスタイルでやっている。

家に帰ると子どもが激しくカラんできてほとんど作業ができないので、こんなスタイルになった。

 

始業時間前にPCに打ち込むまでに、考えた中身を忘れてしまうこともあった。

これは、GoogleKeepを使うことで解決できた。

 

ただ、朝からやることがあって、始業時間前にPCに打ち込む時間が取れないことも多い。

その時はGoogleKeepに入れっぱなしになって、そのまま、というネタも多い。

文章に落とし込むにはそれなりの書く熱意、エネルギーが必要になる。

GoogleKeepは忘れることの対策にはなるけれど、書こうと思った時の熱意までKeepできるわけではない。

 

私より何倍もクオリティの高い文章をたくさん書いている人はどうやっているのだろう。

きっと、そのまねをしても長続きはしないのだろうが。。。

 

自分なりのスタイルを模索していきたい。

リピしたくなる山と魅力的なサービスの共通点

先日八甲田山に登山に行ってきた。

車で2時間ちょっとくらいの比較的近所にある山だが、初めて登った。

 

実にちょうどいい山だな~と思った。

難易度も厳しすぎず、易しすぎずちょうどいい。

距離もムリなく日帰りで回れるくらいでちょうどいい。

景色も、火山の荒々しい景色から高層湿原のノンビリした風景まで楽しめる。

下山してすぐに温泉があってすぐに入れるのもいい。湯加減もいいし、休憩所の雰囲気もいい。

 

特にいいと思ったのが、山塊のなかに山頂やのぼり口がたくさんあって、一度ではその魅力を堪能できないところだ。

山頂やのぼり口がたくさんあると、日帰りで回るときにコースが色々工夫できるので何度行っても飽きないのだ。

 

リピートしたくなる山は、何度行っても飽きない魅力がある。

八甲田山のように山頂やのぼり口がたくさんあって、コースが色々工夫できる山も多い。

高山植物が豊富で5月と6月と7月では全然違う花が咲いているので、何度も行きたくなる、という山もある。

 

提供するモノやサービスも、山と同じように変化を楽しめるかどうかが、魅力的かどうかのカギになるかと思う。

近所の大きなスーパーの鮮魚コーナーでは、いつ行ってもマグロとサーモンと蒸しタコとウナギのかば焼きが置いてある。

必要な物を買いに行ったついでにのぞいても、さらーっとみて通り過ぎるだけになってしまう。

近所の別の小さなスーパーでは、季節ごとの魚とか、地元で採れた正式名称が分からないような巻貝とか、ちょっと変わったものがよく置いてある。

そういう物にはやっぱり足を止めてしまう。

 

魅力とは楽しめる変化をもっていることなのかもしれない。